その仮説は反証できますか?


この記事の所要時間: 250秒 〜 350秒程度(1628文字)


テレビのニュースや新聞・雑誌の記事を見ていて引っ掛かるのが、「ロシアはこの冬を乗り切れるのか?」の類の言い回しだ。危機感を煽るための比喩的な表現なのだろうが、あまりに情緒的過ぎて意味がわからない。何をもって「乗り切れる」とするかが明確でなく、この言葉が問い掛けであれ、乗り切れないことへの懸念表明であれ、成立していなように思えてしまう。「日本経済はこの未曾有の危機を耐えられるのか?」でも、「マクドナルドはこの危機的状況から脱出できるのか?」でも同じことだ。
 
このような真偽の確かめようがない問い掛けは、何となくもっともらしく聞こえるものの、「言ったもん勝ち」の感が強い。何せ、言葉が曖昧で肯定も否定もできないのだから、無敵といえば無敵。そこを狙っているのかも知れないが、少し考えれば発言の無責任さに気付くだろう。つくづく、「反証可能性」の大切さに思い至る。
 

反対

credit: geralt via pixabay

 


反証できなければ科学じゃない!


さて、唐突に登場した「反証可能性」だが、これは科学哲学の中でカール・ポパーが提唱した考え方。仮説が「何らかの実験や観察によって否定される可能性」を持っているかを問うている。そして、ポパーによれば、反証できるもののみが「科学」ということになる。反証できなければ科学じゃないのだ。
 
仮説が「正しい」か「正しくない」よりも、「正しくない」と言い得ることに焦点を当てたこの立ち位置。自分が述べた仮説を否定されたくないのが人情だが、「正しくない」と言い得ない仮説はまやかしということだ。仮説を意味あるものだと主張するなら、仮説が何によって棄却されるかはっきりさせなくてはいけない。反証可能性は疑似科学あぶり出しの文脈で使われることも多いが、「科学」以外の分野においても充分成り立つ仮説の見分け方のように思う。
 


「ロシアはこの冬を乗り切れる」の定義は?


例えば、冒頭に書いた「ロシアはこの冬を乗り切れるのか?」。これを「ロシアはこの冬を乗り切れる」と言い換えれば、反証可能か否かは「乗り切れない」を実験や観測で示せるかの問題になる。ここでポイントは、「この冬を乗り切れる」の定義の甘さ。この部分が、特に議論なく誰もが合意できるようなら、反証可能と言えよう。ところが、「この冬を乗り切れる」はあまりに曖昧なため反証可能とは言い難い。一方で、仮説を主張する側が「国債のデフォルトが起きない」や「飢えなどによる国民の死亡率が○%を超えない」などと具体化すれば、反証は可能となる。
 
反証可能性は、「反証」自体の定義が難しいという問題を抱えているが、普段の生活においてはそこまで厳密でなくてもいいだろう。多少いい加減でも、反証できる仮説とできない仮説を見分けることは、大切な視点のように思っている。
 


ビジネスの世界は「ああ言えばこう言う」!?


さて、ビジネスの世界では、反証可能性はあまり愛されていない。その実態は、「ああ言えばこう言う」が支配している。主張した仮説が正しいか正しくないかをわからなくし、主張の間違いを認めないようにすることも多い。現実は変数が多いので、たとえ反証されてもいい訳が通ってしまい、仮説は棄却されなかったりする。
 
もちろん、それもビジネス上のテクニックだが、この白黒つけない態度が「失敗」を認めない状態をつくっている。反証可能性のない仮説は、ビジネスを進める上で必要悪になっているように思う。対策を単純に考えれば、数値目標をつくって、その達成/未達成に言い訳を許さないこと。前回の記事とも重なるが、反証可能性を重視する姿勢を「哲学」として持つことが、武器になるのではないだろうか。

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